私はとても寒がりだ。フランスは日本に比べ緯度が高いので、住むならなるべく暖かいところにしようと思った。それで南部にある学校を受験した。今思えばとても賢くなかったのだが、私は1校しか受験しなかったのだ。結果は先に言ってしまうが不合格だった。でもそれが自分の力不足のせいだけであるとは、今でも認めることができない。

4月マルセイユへ発ち、南仏の某美術学校を受験した。受験方法は実技と面接。1日目が実技で、確か文学テキストの抜粋を読んで木炭紙大の紙に何か制作しコメントせよというものだったと思う。2日目が面接で、今まで制作した作品やポートフォリオのプレゼンと質疑応答だ。受験生は1人ずつ試験監督教授のいる部屋へ通される。私は朝1番だった。ビデオ作品があったのでパソコンで見せ、その他の作品は写真にとって編集・プリントしたものを見せた。色々質問されたが今となってはよく覚えていない。とにかくあっという間に時間が迫って終わった。

数日後結果が校舎に張り出されたので見に行ったら補欠だった。繰り上がるのかどうかいつ分かるのかと事務局に聞いたが、学校側から個々に連絡が行くという。その時のオバチャンに言われたのが「アナタは10人の補欠者のうち8番目にボン(つまり合格する可能性があるということ)だから云々。」なんだか嫌味な口調だった。しかし、そのリストをよくよく見てみると、順位の苗字がアルファベット順になっていた。補欠者の順番がそんなことで決められるわけ?頭の中ははてなまーくで一杯でした。

しまったなあと思いつつ他にどこも願書を出していなかったので残りの日々を観光したりベトナム屋料理をしょんぼりつついたりして、帰国した。いずれにしても合格者のうち8人位は辞退するだろうという希望的観測を胸に抱き、その年の夏は例によって山中でアルバイトをして過ごした。仕事先は複数あったが、日本で最後に仕事をしたのが8月の半ばだった。本当は8月末で期間満了するはずだったが、途中でギックリ腰になってしまったのだ。7月下旬からお盆休みの登山客の来客で山小屋側では休日なし、朝4時半から夜8時までの仕事が3週間ほど続いた。それが少し落ち着いたところだったと思う。客食準備中にちょっとしゃがんだら激痛が走り、それを最後にまともに動けなくなってしまった。

急遽勤務中断、オーナーに相談し、故障2日後に下山することになった。家族が母方の実家へ行っていたので、山のターミナルからそのまま電車に乗って合流した。近くの整体へも行き、すこしのんびりしてから東京へ帰った。しかし腰痛はしつこかった。常に腰の奥の方に鈍い痛みを感じ、痛みの「流れ」のようなものが膝や足先まで伸びていたのだ。故障から数ヶ月の間、パリのとある医者にかかるまでは完全に回復しなかった。

9月に入っても学校側から何も連絡がないので自ら問い合わせてみると、不合格だという。さらにその学校は試験を春と秋の2度に分けて実施する。結果はインターネットで誰でも見られるようになっているのだが、そのころ行われた後期試験では8人以上の合格者がいたのを覚えている。さらに後で分かったことには、その年の春試験ではフランス国籍者しか合格者を出さなかったらしい。それなら初めから受験表を日本人の私に送ったことがそもそもおかしいのではないか。受験資格はフランス国籍者にしかありませんとあらかじめ明示すればよかったのだ。しかしそういうことをしては問題になるのは明らかだろう。それで補欠者をアルファベット順にして実態を隠したのだ。南仏の一部の地方は国粋的な流れがあるというがそれと関係しているかどうかは分からない。ただ私は少なくともその時その場所に歓迎されなかったのだし、私だってそんなところへ行きたくない。どういうことなんですかと問いただしたところで何の意味もない。腰痛でまともに動けず、予定していた行き先もなくなってしまい、体力的にも社会的にも完全行き止まりにあった私は丸2日間、泣いた。はっきり言って。

それでも渡仏しようと、2日後、決めた。大卒までして何年もたってるので浪人もへったくれもないが、その時点から次の入試シーズンまでを再度準備期間とすることにした。そしてやはり現地で早めに制作をしたほうがいい。色々な情報が入るという点から、とりあえず大都市がいい。それでパリを目指し、学生ビザ申請のための書類集めにとりかかった。