

昨日も真面目に制作。しかし開始30分程度で、わなわなわな、さきイカに手が伸びてしまいむしゃむしゃ、さらに15分後、わなわなわな、赤ワインに手が伸びる。 そうしてちょっとご機嫌になってセルフタイマーでおひとりさま撮影。そして以下は新作の現状。

けっこう真面目に描いていたのだが、だめだおれは、さらに酒が飲みたくなり、ちょっくら近所のスーパーまでひとっ走り、そば焼酎を買ってきてロックで飲んでしまう。つまみなしでも問題なく飲めてしまう自分が怖い。
サクッと二杯ほど飲む。
飲みながら絵を描く。
この絵が良いのか悪いのかいまいちよくわからないが、相当にひさしぶりのF100号(162.1×130.3cm←サイズは暗記している。もちろん自慢)はやはりでかい。
しかしでかいと確かに見応えがある。アメリカの作家が壁のようにでかい作品ばかり作るのも、それなりに納得がいく。
高度経済成長期のCMであったらしいフレーズ「大きいことはいいことだ」は、絵というかアートの世界ではまだまだ価値を持っているのだろう。
なんて思いながら自作を眺めながらそば焼酎ロックを飲む。
飲んでいるとなんか疲れてきて、眠くなってくる。
しかし弁当男子(もはや死語な気がする)のぼくは翌日のお弁当を作らねばならない。適当に炒めものとシシャモ(卵なしのオス。ふつうに卵があるものと思って買ってきたら無かった。卵のないシシャモはただの小魚だと思う)を焼いて弁当箱に詰め、炊飯器には米を二合ばかりといで5時にセットする。そして風呂に入る。眠くて仕方がない。1分とかからず泥のように眠る。
携帯と目覚まし時計の二つが何度かずつ鳴り、睡魔とひと悶着かふた悶着あってようやく妥協のすえに和解できたころ、それは米の炊き上がりから1時間半ほど経ったころ(最近は怠惰でいつもこんな感じなので、だったら素直にそのころにセットすればいいのだが、しかし炊飯器の予約時間はぼくの起床時間の目標なのだ。だって目標のない人間はクソだ、と言いつつ目標を達成できてない人間も五十歩百歩でぼくはクソだ)、ぼくは目覚める。
朝ごはんは昔からしっかり過ぎるほどに食べるマイスタイルであるので、弁当のおかずの残り、つまりお昼のお弁当と同じものを食べる。
で、ここからは諸事情あり省略させていただくが、読みかけの本(豊臣秀吉の経済感覚、日本の方言、ニセ札作りの手記、美について等)を数冊、それぞれ数ページずつ読んで、自画像を描く。なんかいつもとちょっと違う骨太な感じになった、のが冒頭のやつ。
ていうか、単なるぼくの生活レポートになってしまった。
芸能人でも有名人でもないぼくが私生活を子細にさらしていったい何になるのかわからないが、しかし、これを読むぼくを愛してくれているいくらかの人たちは、たぶん、これを読むことでぼくのことをもっと愛するようになるだろう、という打算はある。
なぜならこれはつまり、会話なのである(一方的ではあるが)。
この世で、どれだけの親子や夫婦や恋人が、相手の「今日のできごと」を知っているというのだろう。もちろん知らなくていいことは山ほどあるけれど(正直に過ぎるぼくにだって決して書かない"生活"がある)、基本的には相手のことを知ることで、お互いの距離を縮めてゆく。
これは前にも書いたと思うのだが、ぼくがまだいろんな意味で痛々しいくらいに若かった大学生のころ、ぼくのスケッチブックの内容、まどろっこしくてどろどろとした絵や文章に共感してくれて、ちょっと親しくなった人にもらった手紙に、こうあった。
ある人が言っていました。人と人の間には、いくら話しても、いくら分かり合おうと努力しても、決して埋められない距離がある。しかしそれでもなお、その距離を縮めようと努力することが、人を愛することなのだ、と。
ここで毎日しつこく他愛もないことを書くことで、ひとり勝手に、どこかで少しずつ、だけどたしかに、だれかとの距離が縮まっているのだと思っている。