西尾維新の中編小説『少女不十分』(講談社ノベルス、2011・9)は、二つの相克する言葉が対峙する闘技場の役割を果たしている。一つは緻密に順序づけられた命令の体系、即ち「マニュアル」であり、もう一つは奇天烈な境遇と性格をもった登場人物が奇天烈に活躍する荒唐無稽な「物語」群だ。
少女Uは偶然の出来事から、その場に居合わせた作家志望の「僕」を自宅に拉致監禁する。感情の起伏がないものの挨拶や礼儀作法をきちんとこなす落ち着いた少女。彼女の奇妙な行動に「僕」は混乱しながらも、一貫して穏便な解決で済まそうと、少女不在の隙をうかがい、彼女の身辺を探る。そこで見つけたのが、一冊の自由帳、否、「僕」の言葉を借りれば「不自由帳」だった。
その「不自由帳」には、少女の親が少女に与えた命令が規則正しく書き並べられていた。曰く、「おはようございますと言うこと」。曰く、「いただきますと言うこと」。曰く、「廊下を走らないこと」。曰く、「宿題をすること」。曰く、「人の話はしっかり聞くこと」。曰く……。そこには思いつく全ての日常生活上の「課題」が網羅的に書き込まれている。
Uは今はいない親が与えたその「マニュアル」を忠実に守る。逆に書かれていないことは意欲を示さない。例えば「自分の部屋は自分で掃除すること」の命令は遵守されるが、リビングや物置は命令の範囲から外れるため、ゴミ溜め状態と化す。このアンバランスさには一種の狂気が宿っている。それは彼女の親も理解していた。その為、項目の一つには次のような命令もあった、曰く、「自分の正体を知られないこと」。
こうして、Uは「正体」のヒントを受け取ってしまった「僕」を監禁したのだった。狂気を隠せという命令に服従することで狂気は更に加速する。Uは言葉に占領され、言葉だけが彼女の行動を監督指揮する。独自の思考もなければ、嗜好もない。社会規範やモラル、マナーによって根拠付けられた専制的な言葉の列、即ち「マニュアル」は、見えない監獄となって少女を狂気に閉じ込める。本当に監禁されていたのは「僕」ではなく少女の方だ。
何故、Uの礼儀正しい振る舞いには狂気が宿っている(ように見える)のか。そこには、遊びjeuがないのだ。この遊びとは余裕やゆとりの意味を含んでいる。ブレーキペダルや機械のレバーにあるような遊び。ゼロ/イチで全てが決定しないのが、遊びの特徴だ。いただきますと言い忘れたり、部屋の片付けをしている最中に昔読んでいた絵本を見つけてまた読み始めてしまうような遊び。そのような失敗が全くない時、完璧であり過ぎる時、遊びの消尽した振る舞いが実現され、そこに狂気が宿る。狂気とは運命論的に世界を決定する力だ。
別の言葉で言えば、Uの振る舞いには演技jeuがないのだともいえる。演技がないということ、即ち、演じる私と演じられる私の間に距離があり、それが自覚できるということ。或いは「ナンチャッテ」と言うこと。少女には本気(=ガチ)しかない。本気も又、狂気の別称の一つだ。
言葉に占領された少女を救うには、遊びなく緻密に羅列された常時緊張状態の言葉に、遊びの言葉を与えるしかない。言葉による占領は、同じ言葉によってのみ解放される。「僕」がUに語るのは「物語」、しかも「一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話」だった。曰く、「言葉だけを頼りにかろうじて生きている少年と世界を支配する青い髪の天才少女の物語」(例えば或る作家の戯言シリーズと呼ばれる物語群を想起せよ)。曰く、「妹を病的に溺愛する兄と物事の曖昧をどうしても許せない女子高生の物語」(例えば或る作家が書く「~の世界」というタイトルをもつミステリーシリーズを思い出してもいいだろう)。曰く、「死にかけの化物を助けてしまった偽善者と彼を愛してしまった吸血鬼の物語」(或る作家は『化物語』という名のライトノベルを書いている)。
即興で、行き当たりばったりで語られた物語の部分を成す言葉の数々。それは行儀よく列をなして並んでいる「マニュアル」と対照的だ。一見その言葉の数々は物語の差異に応じてばらばらで、凝集力がなく、「マニュアル」に比べて、弱弱しいようにみえる。しかしその中核には一つの「メッセージ」が据えられ、世界観が相違したとしても、全ての言葉が全ての言葉に応答し続ける。つまり、
「道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。/それが物語に込められたメッセージだった」(210p)
異常や過失や脱落とは一種の遊びなのだというメッセージに支えられた言葉がこうして語られる。このような言葉は言葉の占領に反抗する。しかしそれは体系の力に直接抗するような力技でではない。遊びの言葉は、並んだ言葉の間に隙間と余裕を生み出す。それは言葉(そして行動)の互換可能性を生起させる。例えば「いただきます」を言い忘れることや、部屋の掃除をすべきなのについうとうと眠ってしまうこと、或いは自分の「正体」を他人に知ってもらうこと。
勿論、現実的に考えて、このような言葉の絶望的な弱さを無視することはできない。実際、「ある地方で大きな自然災害が起きていた」(214p)ようなことで当の監禁事件さえ、事件として報道されず、少女の行く末も明瞭には語られず、「物語」が効力をもてたかどうかは分からない。
遊びの言葉、「物語」にどれ程の効力があるかどうかは分からない。しかし、「自然災害」がどうであるとか、それに伴って発されるだろう、いくつかのテクノロジーや社会構造の是非の言葉だけで、私たちが生きていけないのは自明だ。それらは容易に「マニュアル」に回収されてしまう。Q&Aの項目が延々に並ぶ、より現実に最適化された「マニュアル」は、しかし遊び=ゆとりを喪失してしまうだろう。そしてその言葉が私たちを占領してしまえば、間違いに対する敏感な不寛容は強化され、世界に対するルサンチマンが膨らみ、私たちは更に苦しむことになるのではないだろうか。
「マニュアル」が大切でないとはいえない。しかし、「マニュアル」が遊びを忘れてしまえば、そこは狂気が巣食う場所となる。だからこそ、根も葉もない空想や下品でしかしげらげら笑えるどうでもいい滑稽話、何のエビデンスもない希望の未来を語り続けることは大切だ。丁度、「色々間違って、色々破綻して、色々駄目になって、色々取り返しがつかなくって、もうまともな人生には戻れないかもしれないけれど、それでも大丈夫なんだと、そんなことは平気なんだと」(210p)、「僕」が語り続けたように。
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少女不十分 (講談社ノベルス)
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Paboo掲載。私の西尾『きみとぼくの壊れた世界』論。
参考として。お読み頂ければ之幸い。