【幸福否定の研究とは?】

勉強するために机に向かおうとすると、
掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。
自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”
は何時間でも苦もなくできてしまう。
自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、
“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究の紹介。


今回は、一般的にもわかりやすい"愛情否定”を紹介したいと思います。

友人、知人などとの普段の会話の中でも、


・何度も同じタイプを付き合い失敗する。
・どちらかが追いかけると、どちらかが離れるという事を繰り返す。
(自分から別れたいと言いながら、寄りを戻したいなど)
・何年も相手の悪口を言い、別れると言いながら結局別れない。
(これは愛情否定でもありますが、
 心理的な距離が縮まっているので愛情が深まっているケースです)
 

といった話題はよく耳にするのではないでしょうか。

私自身、病気に関する幸福否定は、治療を通じての経験もあったので比較的容易に理解できました。
この愛情否定に関しては、人生経験の不足もあり、幸福否定の観点から考えた事もありませんでしたが、指摘されればその通り、と納得してしまいました。

仕事柄、女性と話をする事が多いのですが、独身でオシャレもしていて仕事も順調、恋愛もしている女性がどことなく不安定で(脈絡もなく施術中に泣きだしたり…という経験もあります)旦那さんの悪口ばかり言っているオバサンのほうが、精神的に安定しているように感じてはいたのですが、なぜそうなるのかも理解することができました。

以下、笠原氏の 心の研究室 「恋愛感情と愛情」 から要約、引用します。


・ 愛情が深くなると倦怠期という段階が訪れる(心理的な距離が近くなる)

  遠慮が無くなり、自分の欠点を見せ始め、相手の欠点が鼻につくようになり、
  顔を合わせるのが嫌になる。
  また、身体的な接触を嫌う事もある。

  一般的には"愛情がなくなった”と勘違いされる。

  自然な経過なので、恋人同士の頃のようにもとに戻る事はない。

・ 愛情否定が強いと心理的距離が遠い関係を続ける事になる。

 傍から見ると、揉め事もなく仲むつまじく見えるが、
 何年経っても他人行儀から抜け出す事ができない。
 (恋人や愛人に対するような関係が続く)

 周囲から見ると、一見仲むつまじいが、
 他人行儀な態度をとり続けている様子は奇異に見える。

 また、心理的に近い距離になれないため、恋人の状態を繰り返す場合は、
 相手を何度も変える事になる。


 ・愛情が深くなると、その先はどうなるのか? 
 単なる同居人になってしまうのか? 注1

 妻と愛人との比較がヒントになる。

以上 要約

 "この先を考えるヒントになるのは、たとえば妻と愛人の比較です。
 妻と愛人とがいる男性が、交通事故や脳卒中で寝たきりになったとします。
 そうすると、この男性を介護するのはどちらでしょうか。
 意識では、この男性は、妻よりも愛人のほうにはるか
 “愛情”を感じているはずです。 (中略)

 ここではっきりしているのは、よほど特殊な事情でもない限り、
 愛人が妻を差し置いて介護することは
 ないということです。
 それは、日陰の存在だからとか、その義務がないためということではなく、
 そういう間柄――法的な意味ではなく、心理的な意味での間柄――
 にないからでしょう。

 長年同居している場合を別にすれば、愛人とは、妻と違って
 表面的な関係にすぎず、「雨降って地固まる」という経過を何度となく
 繰りかえしてきたような、親密な間柄ではないのです。

 では、妻は、単なる義務意識や損得勘定から、
 自分が嫌悪する夫の介護をしぶしぶするのでしょうか。 "

以上、引用 心の研究室 「恋愛感情と愛情」


結論は、義務意識や損得勘定ではなく愛情という事になります。

引用ばかりになってしまいますが、次回、"義務意識や損得勘定ではなく愛情"という部分の検証を紹介したいと思います。

(続く) 

注1:30代の女性から"友人が旦那さんの事を"同居人”と呼びだすと、
   離婚の話になる事が多い”という話を聞いたことがあります。
   もともと愛情がない相手と結婚したために、本当の意味で同居人
   のようになってしまう場合と、距離が近づいたため愛情否定が強くなり、
   接触を嫌いだす場合の両方が考えられますが、愛情否定のほうが多いでしょう。