使用済み核燃料、直接処分も 原子力委員長が明言
 朝日新聞

国の原子力委員会の近藤駿介委員長が朝日新聞の単独インタビューに応じ、原発の使用済み燃料をすべて再処理する現行のやり方は限界があり、将来は地中にそのまま埋める直接処分との「併存」になるとの考えを初めて示した。
今夏、政府が示す新しいエネルギー政策で全量再処理を断念すれば、半世紀にわたって進めてきた原子力政策が大きく変わることになる。
 
 
先月の末から、金曜日の夜は絶叫する群衆が官邸前を埋め尽くしている。
関西電力の大飯原子力発電所三、四号基再稼働へ抗議する大掛かりなデモだ。
ヒートアップする反原発「一揆」の興奮に勢い余ってか、警察発表と十倍以上もズレている「20万」だの「15万」だのという「大本営発表」が毎週出まわっているのだが、それなりの人出になっていることは間違いない。

一昨日の金曜も、大勢の人が集まって「サイカドウハンタイ」と叫び、大きな音を野田首相に浴びせていたようだ。


しかし、日本の「今後」に与える影響という意味においては、先月末のデモと同時期に報道された上記ニュースも同じように、いや、むしろより重要で、注視していかなくてはならないものだった。


日本は民主主義を奉じる国家なのだから、権利としてのデモはどんどんやればいい。
けれども、偏向した原発への怒りを闇雲に叫ぶことを目的とした人々の動向よりは、大量の廃棄物としても蓄積されている、臨界可能な濃度のウラニウムを消費した核燃料をどのように「処理」し、「処分」してゆくかの国家的な方向性に関する情報の方が(少なくともぼくにとっては)重要である。


「処理」「処分」は、「原発を停める」という分かりやすいカタルシスよりも遥かに地味で困難なミッションだが、福島第一原子力発電所の大事故を受け、原子力を含むエネルギー政策が大きく変更されるからこそ、もはや先送りは許されない状況になっている。


「処理」「処分」への姿勢は、原子力発電を国策として利用する国同士でも一致しているとは言えない。
昨年の東日本大震災直後、渋谷UPLINKの緊急ロングラン上映で話題を呼んだ100,000年後の安全は、フィンランド政府がさまざまな検討を経たあとに選択した「処理」方法、即ち再処理を施さない使用済み核燃料の地中埋設をドキュメントしたものだった。

上記のように、日本においてもその実施(再処理縮小⇒直接地層処分)が本格的に検討されることになった記録として、昨年5月にはてなダイアリーへ投稿したレビューに、日時や追加情報などの加筆、修正を加えた上で、以下に再掲する。 


■ 「人類」以後…「ポスト・ヒューマン」への映画


100,000年後の安全 [DVD]  100,000年後の安全


十万年、という時間について考えてみよう。
十年ではない。じゅうまんねん、だ。

Hundred thousand years=100,000年

ウィキペディア【地球史年表】によれば、約10万年前に、アフリカ大陸からホモ・サピエンスが、つまり「我々」が世界へと移動を開始したのだという。
「十万年前」に生きた「我々」は、「十万年後」「いま」を「想像」することなどできなかったが、「いま」生きている「我々」には、これから「十万年後」の世界を思い描くことはできるだろうか?
そして、未来に対して「いま」の社会がもたらす影響を「想像」したり、考慮したりすることが可能だろうか?


無論、知恵の木の実という禁断の物体を思いきり貪ってしまった「いま」「我々」にとって、十万年どころか百万、千万年、いや宇宙の終わりの日でさえも、「想像」することはきわめて容易い。「想像」することだけならば。

しかし、そんなことに何か意味があるだろうか?
実際に日々、毎日毎日人々が生まれては、死ぬ「世界」の見通しとなると、数十年から百年先のことですら、見解の一致を見ることが少ないというのに…


2011年の春、渋谷UPLINKでの上映で大きな反響を呼んだ「100,000年後の安全」は、そうした困難な問いを「我々」に投げかける。
永遠(とわ)へ:Into Eternityという原題を持つこの風変わりなフィルムは、デンマーク出身の現代美術作家であり、映画監督としても活動するマイケル・マドセンが2009年に発表したドキュメンタリーだ。




現在もフィンランドで進行中の核廃棄物最終処分場、通称「オンカロ(洞窟)」の建設プロジェクトを、担当者たちへのインタビューや実際の処分場内部の映像を通して「批評」「考察」してゆく。ジャーナリスティックな価値判断を打ち出したものではなく、主に「十万年」という時間へスポットが当てられている。
震災直前の二月、BS世界のドキュメンタリー<シリーズ 放射性廃棄物はどこへ>地下深く 永遠(とわ)に ~核廃棄物 10万年の危険~としても放映されている。


■ 「核の墓場」としての「オンカロ/ONKALO

「オンカロ」は、フィンランド国内の原子力発電所から排出される高レベル放射性廃棄物…具体的には使用済みの核燃料を地層処分するために建設される。
綿密な調査によって地盤の安定性や強固さが認められた古い地層中に、数百メートルを超える巨大なトンネル郡を掘削することで、「封印される核の墓場」を築くという壮大な計画だ(下記画像はその概略図。リンクは→ Wikipedia:Onkalo-kaaviokuva)

Onkalo-kaaviokuva


「墓場」に選ばれたのは、南西部沿岸にあるユーラヨキ自治州、オルキルオト。
(同地は、フィンランドに二箇所ある原子力発電所の一つが立地している)
オルキルオト原発では79年と82年に運転を開始した沸騰水型の二基が現在も稼働し、2014年に完成を予定する最新型のEPR(欧州加圧水型炉)が建設中だ。さらにその後も一基の増設が予定されている。*1 *2 *3*


放射性廃棄物全般を「地層処分」するという構想自体はフィンランドに特有のものではない。以前からもっとも安定的な核廃棄物の最終処理手段として世界的な合意が形成され、各国で候補地調査、選定が進められている。既に、放射性レベルの低い廃棄物を保管する地下処分施設は同国やスウェーデンの原子力発電所敷地内で操業を開始している。




日本においても(使用済み核燃料からプルトニウムやウランを取り出す再処理を施した後か否かという違いはあるが)数十年前から調査計画が存在し、現在もNUMO(原子力発電環境整備機構)による技術研究が続いている。殆んど進展が見られないとはいえ、受け入れ自治体の公募も行われている(たびたび「登山家ではなく政治家」と揶揄される野口健も、広告塔としてPRに熱心だ)。

しかし、もっとも厄介な核燃料の最終処分を巡る議論に決着を付け、実際に関連施設の建設開始までこぎつけたのは現在のところフィンランドだけだ。

※ 参照:公益財団法人原子力環境整備促進・資金管理センター「諸外国での高レベル放射性廃棄物処分」 「余裕深度処分対象低レベル放射性廃棄物の処分」 )



■ 【原発推進】のフィンランド

北欧諸国の中で原子力発電所を有するのはフィンランドとスウェーデンの二カ国のみで、ガス田や油田などの化石燃料産出国であり、同時に風力、水力の資源にも恵まれたデンマーク、ノルウェーは非導入を貫いている。


フィンランドが特異なのは、米国のスリーマイル島の事故を機にスウェーデンが(未だ実現には程遠いが)それまでの原子力発電推進から一気に脱原発へと方針を転換したのとは真逆の選択をしていることだ。広くヨーロッパ全土を汚染したチェルノブイリでの大事故後はさすがに一端停滞したものの、今も原子力発電を推進する立場を崩していない。

上述したオルキルオト原発3号基の増設に続き、福島の事故後にも、西部ピョハヨキへ新たな発電所を建設することが決定している。*4


※ AREVA社による、EPR(欧州加圧水型炉)のCM。オルキルオト3号基はこの炉がはじめて採用される。


彼の国が原発を積極的に利用する理由については、ヨルマ・ユリーン駐日フィンランド大使(当時)が2009年に日本原子力産業協会の第42回年次大会で行った講演【長期展望にたったフィンランドの原子力発電が分かりやすい。


…気候変動とその影響に対する懸念がフィンランドの国民や政策決定者の間で急速に広がったため、1990年代に大きく高まった反原子力発電運動は、最近になってかなり弱まりました。

…原子力発電所の新規建設は、政府が原発で発生する高レベル放射性廃棄物の最終処理について「原則決定」をしたことで前進することになりました。

…政府や企業は、今後は特に電力需要が増大することを予測し、原発の増設は不可欠と考えています。製造事業者も電力会社も、原子力の重要性がこれから何世紀にもわたり高まっていくことを十分理解しています。
 
…国際エネルギー機関(IEA)によると、フィンランドはIEA加盟国の中で最もエネルギー経済が多様化した国であり、フィンランドは、この高度に多様化したエネルギー経済を今後も維持していきたいと考えています。なぜなら、エネルギーの安定供給や適正価格の維持は、ロシアから天然ガスや電力の輸入を増やすことではなく、国内発電量を増やすことで保障されるからです。
 
 

大使の主張は明確だ。(京都議定書に基づく)温暖化への対策に加え、産業需要の急速な伸びと、それをロシアからのエネルギー輸入で賄っている現状を変化させることが原発の新規増設を含む維持/推進の理由だということ。

冷戦下で形成されたノルディックバランスの中で旧ソ連に対し従属的関係を続けざるを得なかった過去を持つフィンランドにとって、近年も毎冬のように勃発しているロシア・ウクライナガス紛争などを考慮すれば、拡大するエネルギー需要をいつまでもロシアからの輸入に依存することは好ましいことではないからだ(天然ガスばかりではなく、同国のロビーサ原発で使用する核燃料もロシアからの輸入である)。


「オンカロ」の建設は、そうした思惑に基づく原発増設の為に欠かせないものだった。
フィンランドは1994年に原子力条例を改正し、70年代に初めて原発を導入して以来続けていたロシアへの使用済み燃料返還を中止すると共に、自国内ですべての核廃棄物を最終処分するという決定を下した。
95年には事業の主体となるポシヴァ社が立ち上がり、100を超える候補地から選定を行った結果、2001年にオルキルオトが処分場として国会で正式な承認を受けることとなった。


以上の経緯によって、原子力発電の黎明期から現在までずっと指摘され続けている欠点、即ち「処分できない核のゴミ」「処分」する目処をつけ、満を持してフィンランド政府は原発の建設再開に踏み切ったのだ。

 
■ 「十万年」の禁忌
 

「使用済み燃料を再処理すれば再利用できると考えられている。だが再処理はすべきじゃない。再処理の過程で抽出されたプルトニウムが流出するかもしれない。核爆弾の開発に使われる可能性がある」
 
「恒久不変の解決法、あるいは長期的で安全な解決法を探す必要があります」

「…過去100年の間に世界大戦が2回ありました。つまり、地上の世界は不安定なのです」

「…海底に沈めたとしても、絶対に安全とは言い切れない」 

「我々はある結論に至りました。フィンランドの地層は18億年前のものです。遠い将来まで見越せる、安定した環境だという結論です。少なくとも10万年後までは安定しているでしょう」

( 劇中日本語字幕:渡部美貫/監修:須永昌博 以下全て同じ )
 


プロジェクトの担当者や政府監査機関、廃棄物処理の専門家たちは、監督のインタビューにこう答える。
「オンカロ」は2012年から最終的な施設建築の認可申請をし、完成した処分場は2020年から使用済み核燃料の受け入れを予定している。2100年には規定の容量に達する見込みで、その後、入り口は厳重に封印され、管理区域として接近が禁止される。
映画の日本語版タイトルにも使用され、もはや言葉そのものが一人歩きしている感もある封印の想定期間は実に「十万年以上」、米国に至っては「百万年」だという。


核廃棄物の「地層処分」が国際的な合意を得ているということは既に述べたが、これらの数字…人類の文化的な歴史を遥かに超える途方もない封印年月の基準は、核分裂を利用した発電の結果として燃料へ蓄積される寿命の長い放射性同位体、プルトニウム、アメリシウム、キュリウム等の持つ放射能が十分に減衰するまでには数万年以上が必要だという核物理に基づいている。
 
◆ 
そして、いま、専門家たちの間では封印後の「十万年間」を巡って、新たな懸念が持ち上がっているという。
それは、封印のあいだを通していかに「オンカロ」「禁忌」の場所として、人類から、「我々」から遠ざけておくのか、ということだ。
かれらの議論は、放射性廃棄物の処理という唯物的なミッションを、なにやら抽象的な、意味論めいたものに変えてゆく。


「…現存する放射性廃棄物の問題は、原子力とは別の問題として考えなければなりません。これが未来の世代に影響を及ぼさないよう責任をもって取り扱うべきです。」

「…”氷河期が訪れたら?”といつも考える。…我々の推測に基づくシナリオによれば今から6万年後に氷河期が訪れる。…そうなればすべてが消滅します。」

「…我々は可能な限りオンカロを人間から切り離したいんです。なぜなら未来の人間の行動が予測できないからです。」  
 
「…未来を想定する時に注意すべき点があります。その文明が高度でも原始的でもなく掘削技術を持つ程度の場合です。掘り当てた物を理解する技術がないかもしれません。」

「…未来の人間があの施設を発見した時、宗教的な意味にとるかもしれない。埋葬地とか、財宝があるとか。…未来の人類の理解度は我々がピラミッドを理解する程度でしょう。」

「…大きな悩みです。未来の人類への伝達方法がね。きっと言語や文字の表記が違うでしょうから、普遍的な方法を探さなくてはなりません。」
  

◆ 
「文明崩壊後のビジョン」「封印された古代文明の技術/遺物」という設定やガジェットの類はSF映画や漫画、ゲームにおける基本パタンの一つだが、「封印された核の墓場」「未来の【我々】が接近するのを阻止するには?」というテーマはとてもユニークではないだろうか(とはいえ、ぼくはSFに疎いので、実際のところよく分からないのだが)。

「墓場」に封じられる/ているのは、亡骸ではない。恐ろしい魔物でもない。失われた文明の知識や、奇跡の技や、素晴らしい宝物でもない。

奇妙な錬金術の、危険な「残り火」だ。

その「墓場」は現実に存在し、ピラミッドや教会とは異なった意味でヒトの世界を超えることが目指されている…。 


■ 存在しない「我々」への「安全」を考える無意味 

Wikipediaによれば、「地層処分」を検討するにあたって、世界的には下記のような点を考慮するべきだとされている。
大筋ではフィンランドで議論されている内容と同じものだ。
「何か人造物が存在し、それは危険である」と警告する。そして、施設の情報を詳細に記録保存し、次世代以降の「我々」へ伝えてゆくという姿勢。
 

将来世代による処分地への意図しない接触を抑止し、意図的な接触を行うか否かの意志決定に資する目的で、遠い将来まで残しうる記録媒体の開発、および方向性は逆であるが考古学的な視点を含めた記録保存の研究も行われている。

保存されるべき情報のレベルは以下のように区分される。

初歩的情報:
何か、人造物がそこに存在する
警告情報:何か人工物が存在し、それは危険である
処分場に関する基本情報:5W1Hに関する情報
処分場に関する総合情報:詳細な記述、図表、グラフ、地図、ダイヤグラム等
さらに詳細な情報:

フリー百科事典 Wikipedia:地層処分より
 
 


フィンランドや、同じように地層処分への手続きが他の原発保持国より進んでいるスウェーデンでは、伝達の前提として「すべてが失われる可能性」を重視しているのが特異と言えるだろうか。

◆ 
そこで議論されている内容は、ヒトの倫理や哲学に関わる思考、想像力の飛躍としては非常に興味深い。
だが同時に、現在の文明を維持するために必要不可欠な廃棄物処理という厄介で差し迫った問題に対して「十万年」というタイムスパンを持ち込むことはきわめてナンセンスだとも感じられる。


このテキストの最初の方でも書いたことだが、「十万年」という時間を遡ればホモサピエンスがアフリカから移動をはじめた時期であり、農業の開始は一万年前、太古の四大文明発生ですら僅か数千年前のこと。
劇中でもピラミッドを例に出して「十万年」という数字がどのようなスケールかが語られるが、地球の地質、地殻変動のレベルで見れば僅かな期間にしか過ぎず、「人類」の歴史と比較すればあまりに途方もない時間だ。


「未来の世代に害を及ぼさないよう責任を持って取り扱うべき」とはいうものの、数万年先の「未来」に、「我々」が存在している可能性がどれだけあるというのか?すっかり政治の道具と化した温室効果ガスの影響が真にそれほど重大であるならば、1000年も経たないうちに「我々」はおそらく地上から消え失せているだろう。インタビューに答える人々は氷河期の可能性にも言及するが、そんなカタストロフ(環境激変)が訪れたあとに再び文明が再興するとも思えない。


考えれば考えるほど、「十万年」という時間を「安全性」の観点から議論するのは無意味であること、想像力の遊び(それはとても面白いのだけど)以上のものではないと気付くことになる。

真剣に「人類以後」の世界にまで思考の射程を延ばすという行為は、文学か、哲学か、あるいは宗教が取り組むべき領域なのだ。

かつての「我々」が持っていた超越性への素朴な憧憬が消滅し、徹底的に唯物の世界を生きる2012年の「我々」が実際に選択できることは、吟味され、選定された「墓所」へ厳重に「火」を封印することだけだ。


■ 「未来」の「我々」が「侵入」する映画

「封印される核廃棄物」という行為自体がSF的であるからか、「100,000年後の安全」という作品も、批評的、政治的なメッセージを含む部分と同時に、そうした映像作品的な色彩も濃い。


監督のマドセンは音響を軸にしたコンセプチュアル畑の映像作家ということもあって、凡庸な反原発映画の流儀…おどろおどろしい記録映像を組み合わせた恐怖の絶叫や、素朴なヒューマニズム…を拒否し、実にスマートで幻想的な画面を作り上げている。 




ステディカムで撮影された中間貯蔵施設への燃料搬入風景や、オンカロ建設に携わる関係者へのインタビュー編集の手際は、非常に効果的な用いられ方をするクラフトワークの音楽(そう、ご想像通り、Radioactivity)や映像エフェクトを伴って、静かだが深々とした「核」の圧迫感を観る者に与える。 
ストーリーの冒頭や中盤、暗闇の中で擦られたマッチの火に照らし出されたマドセンが虚ろに語る箇所も、強い印象を残すだろう。


「ここは来てはならない場所だ。通称オンカロ "隠された場所" という意味だ」

「昔々、ヒトは火の扱い方を学んだ。他の生物ができなかったことだ。そして世界を征服した。ある日、新しい火を発見した。消せないほど強力な火だ…」
 


ときおり挿入される美しく幻想的なオルキルオトの雪景色と、掘削現場、その坑道内部を進むカメラは「禁忌の場所」に入りこんでしまった「未来の我々」の視線と重ね合わされている。クラフトワークに変わって今度はソプラノの絶唱が坑道の神秘的な暗闇に響き渡る中、段々と奥深くまで「侵入」してゆく「我々」に語りかけるマドセンのナレーションは、未来を透視する予言者のような趣だ。



「君はオンカロを発見し、開けるかもしれない。それが "人間の侵入" だ…」 
 
「…英雄を祀る場でも、栄誉を称える記念碑でもない…あるのは危険で不快な物だ…引き返して二度と来るな。ここには何もない。奥へは行くな。」
 
「…さらに奥へと来てしまったね。ここは来るべき所じゃないのに。放射能が充満している。気づかないだろうが君はすでに被ばくした…透明な光が君を突き刺す。それは宇宙の力を集めて作られた我々の文明が放つ最後の光だ」
 


■ 「夢のエネルギー」を埋葬するための「墓所」

マドセンが取材をした時期は「オンカロ」建設のフェーズ1(地下420mに存在する設備への螺旋状に下るアクセストンネルの開削。2004年から2009年)*1 だった。
その後、何度か坑道の規模拡大へ修正を経ながらも、予定通りの操業へ向けて着実に建設が進むこの「墓所」は世界の核廃棄物最終処理をリードするプロジェクトである。原子力発電から撤退、あるいは継続のいずれを選択するにせよ、最終的に殆どの原発保有国は同じような「墓所」を完成させなければならない。


とりわけ、けして広いとは言えず、地殻も安定しない国土の上に世界三位である54基もの発電所を持ち、行き場のない大量の使用済み核燃料と再処理後のガラス固化体を抱えた日本にとっては、これまでも、これからも喫緊の課題である。

しかし、長きに渡って「核燃料サイクル」という「歪なエネルギーの夢」に囚われ、思考停止してきた日本で、「オンカロ」は口を開けることはおろか、墓の場所すら決まる気配がない。


福島第一原発で事故が起きた際、原子炉建屋のプールに溜め込まれた使用済み核燃料が原子炉同様に大きな危機を迎え、暫定的な安定化を確保した現在もそれが続いていることによって、所謂「トイレの無いマンション」が持つリスクが改めてクローズアップされたかたちにはなったが、もともと、状況は逼迫していたのだ。

一部国民の強硬な反対によって同じように「オンカロ」の建設が困難を極めている米国と共に、モンゴルへ代替地を求めるという飛躍した(反面、とても危険な魅力を持つ)計画が持ち上がったこともあったが、それも昨秋に敢え無く潰えた。*5


冒頭にリンクした近藤委員長の発言通り、「全量再処理の断念」が今後の原子力政策の既定路線となれば、現在のどうにもならない逼迫状況が根本的に変わる可能性も出てくる。

近藤委員長はじめ、核燃サイクルを推進してきた原子力産業の人々も、内心はそれが破綻した計画だということを理解しているはずだ。かれらが未だ「核燃サイクル秘密会議」だの何だのと抵抗を見せているのは、「もんじゅ」「六ヶ所再処理工場」に象徴される、膨大な金額を注ぎ込んだ「夢のエネルギー」という構想が壮大な蜃気楼だったことを認められない未練からだ。


今後も半永続的に続いてゆく核のリスクと付き合い、「火」をコントロールしながら21世紀の日本を生きなければならない「我々」は、先ずはその砕けた未完の夢ごと、溜りに溜まった「消せない火」を埋葬する決断を下さなければならない。

それは、「未来」ではなく、「現在」「我々」のためにこそ必要とされるのだ。




*1 Wikipedia:オルキルオト原子力発電所
*2 Wikipedia:Nuclear power in Finland
*3 原子力百科事典 ATOMICA:フィンランドの原子力発電開発と原子力政策 
*4   Reuters. Retrieved 2011-10-05:3-Finland names 1st nuclear site after Fukushima
*5 「モンゴル政府:核処分場建設計画を断念 日本に伝達」毎日新聞(2011年10月15日 2時30分)