先日、毎日新聞のコラムにこんなのがあった。 


…幕末・維新のリーダーについても、池波(小説家の池波正太郎※引用者注)さんは興味深い批評をしている。 

「西郷隆盛は人物も立派なのだが、何しろ、見るからに偉人の風貌をそなえているから、することなすこと、すべてに信頼をもたれる。
もしも西郷隆盛が『きりぎりす』のようにやせた男であったら、あれだけの仕事をなしとげられなかったであろうし、上野の山に銅像もたたなかったであろう。この点、大久保利通は大分に損をしているといえそうだ。
人間というもの、姿かたちも大切なものなのである(『人斬り半次郎』)」

「あの巨体、あの重々しさ、堂々たる、そのくせ少しも力まずしてそなわった威厳など天性のすばらしさは、西郷の声や言葉を『真実』のものとした」(同)とも礼賛した。

2013年05月22日 サンデー時評:「歌ったり、はしゃいだりしないほうが」
http://mainichi.jp/opinion/news/20130522org00m010003000c2.html
 


「人間は 見た目じゃないよ 心だよ」とはよく言ったものだが、そうは言っても人間に目が付いている限り、文字通りまず目に付くのが見てくれなのだから仕方がない。 

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1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)による『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 
 

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【幸福否定の研究とは?】

勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究の紹介。




前回までで、1970年代に開発された小坂療法から笠原氏の心理療法が確立されるまでの経緯をひととおり説明しました。今回は、笠原氏の心理療法における症例について書きたいと思います。

笠原氏の心理療法の本質は、患者が抵抗に直面することであり、その際、感情の演技という方法を用い、抵抗に直面しているかどうかの指標として、反応の強さを観察します。そして、同時に“症状の直前の出来事を探る”という小坂療法を踏襲した方法も用いて症状の原因を探りますが、いずれにせよ、反応を頼りに強い抵抗へ直面させ続けるという点に治療の本質があります。

精神疾患全般、その他心因性疾患の症例があるようですが、特筆すべきは精神分裂病の症例が存在することでしょう。

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前に訪れたのはいつだったか。
おそらく陰毛も生えていなかったころではないかと思う。 

入館していないのも含めると、最後に行ったのは高校の時分、卒業アルバムのための集合写真の撮影だった、気がする。

広島平和記念資料館である。
ついつい原爆資料館と呼んでしまうが、広島平和記念資料館が正式名称なのだ。 

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1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。
 
 

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先日のクチャクチャグァポグァポの件の続き。

棺桶に片足突っ込んでいる人間に文句を言ってもしょうがないので、大人な振る舞いで解決することにした今日の朝。 すなわち、食べる時間を意図的にずらす。

大人は不快なことに対して直接訴えない。
ただ立ち去るのみである。

祖母はいつも7時30分くらいから朝ごはんを食べる。そして30分はごはんを食べている。そんな情報を母より入手した。ならば8時からごはんを食べよう。そうすれば、もう不快不愉快な朝ごはんタイムとはおさらばである。

起床。絵を描いて英語の勉強をして、7時30分。それから、ランニングにでかけた。ランニングは約20分。シャワーを浴びて約10分。ちょうど8時になる。完璧なタイムスケジュールである。心なしか、ランニングの足取りも軽い。気のせいか、瀬戸内海はいつにも増して穏やかである。

爽やかなハァハァを漏らしながら帰宅した。

さて、シャワーを浴びてごはんを…

…と思っていると、ちょうど祖母がごはんをよそっているところであった。
祖母はぼくを見て、「おはよう」と笑ったが、ぼくは声を失い、引きつった。 

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1:この翻訳はエミール・ブートルー(Emile Boutroux)の『自然法則の偶然性について』(De la contingence des lois de la nature [Paris,1898]の部分訳である。原著はINTERNET ARCHIVEで全て閲覧できる。
http://archive.org/details/delacontingence00bout

2:強調を示すイタリック体は「」に置き換えている。《》はそのまま用いており、〔〕は訳者による補足である。

3:訳出にあったって、野田又夫訳(創元社、1945・11)を適宜参照した。


 

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ぼくの朝は祖母の咀嚼音から始まる。

だいたい、7時半。

ぼくの生活リズムでは、朝起きて絵を描いてランニングして朝ごはん、という時間。
その時間が、祖母の朝ごはんと奇しくも重なるのだ。 

祖母のことは、別に嫌いでも好きでもない。
学会員なのでやや池田大作信仰が過剰だが、おおむね善良ではある。
少なくとも人に恨まれ疎まれるような性根の持ち主ではない。 

しかし、問題は咀嚼音である。
言うまでもなく、咀嚼音とは人が食べ物を噛むときの音である。

祖母は幼いころから耳が悪く、そのせいか昔から咀嚼音が強い。
最近はほぼ聴覚を失ってしまい、全聾に近くなり、正確にコミュニケーションをとるには筆談の必要があるくらいだということもあり、さらにその咀嚼音が悪化しているようなのである。祖母の食事中、間断なく響く。

クチャクチャグァポグァポ。

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