(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

伝言


朝になりヤク飼いの家にジャムソーがやってきた時には、悪寒と発熱で身動きできなかった。

6時半出発なんて、到底無理だった。
発作的な高熱がおさまるのに、2時間くらいかかるんじゃないかと思った。

ここから終点のガサまで、まだ3.5日分の道程が残っていた。

ガサまで行かないと、自動車の通れる道はない。トレッキングを中断して車で移動する、という選択肢はないのだ。状況によっては予定通りに帰国できないかもしれない。

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【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第64回概要
 
1.日時:2016年6月25日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店7号室
3.テーマ:ニコラス・G・カー『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』(2010年、青土社)を読む。
4.概説:新宅睦仁【ネットでバカにならないために、あるいはための。】
 ⇒https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3Q1ZXMXZ3d2k3MmM/view?usp=sharing
 5.備考:FBイベントページ

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【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第63回概要
 
1.日時:2016年5月28日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店1号室
3.テーマ:高木仁三郎『巨大事故の時代』(弘文堂、1989)を読む
4.概説:東間嶺【巨大テクノロジーは〈死の文化〉か?CP(=Catastrophic potential)と社会の『選択』】
https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3ak4xWTFXRGlVWXM/view
5.備考:FBイベントページ
https://www.facebook.com/events/1755360661342812/

 

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 先日、「あいちトリエンナーレ2016」の3会場(名古屋、岡崎、豊橋)を12日の小旅行で巡った。豊橋会場の小林耕平、岡崎会場のハッサン・ハーン、名古屋・長者町会場の今村文など、印象に残った展示はいくつかあったが、ここでは豊橋会場の水上ビルで見たラウラ・リマの《フーガ》について雑感を記しておきたい。


 水上ビルとは豊橋駅付近から約800mに渡り複数の建物が軒並み連ねる古いアーケード商店街のこと。ラウラ・リマの《フーガ》は、この商店街の中にある4階建ての狭小ビルを使ったインスタレーションで、100羽もの小鳥が建物中に放し飼いにされている。訪れた人はこの「小鳥屋敷」を探索することが出来るのだが、もちろん小鳥に触ったり無闇に近づいたりする行為は禁止だ。小鳥たちを驚かさないように、金網を張り巡らした入口から二重のドアを経て室内に入ると、さっそく桜色のくちばしを持つ愛らしいブンチョウがつがいで迎え出てくれた。

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I-Ⅲより続く


IーⅣ

《記憶 mnemosyne》についてたちかえりたい。まず、思考の内部での表象作用である《記憶》というものを眺めてみる時に、記憶を司っている傾向性である《想起 anamnèses》の在りようを初めに考えていきたい。…つまり、なぜ想起とは可能になりうるのだろうか。もっともシンプルな説明であると思えるのは、その時々の必要性に応じた意識下の、前ー言語的な記憶が、無意識と意識の連関によってひきあげられるためである。また、もうひとつすぐに思いうかぶのは、視るひとが視られる対象をまなざすときに、その対象へと関心が集まる現象学で呼称する《志向性》に、《想起》が表裏一体となり連動しているのではないかということである。ひとの認識はたとえば視覚においていうなれば、ゲシュタルトで説明されうるように、意味づけられること≒既知の事象のふちどりが浮き上がり輪郭をもって識別されうることに他ならない。

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(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

何かおかしい朝


テントの中が明るくなるころ目を覚まし、いつものように短い瞑想をした。そして出発の時に慌てないよう、洗面する前に寝袋や着替えをダッフルバッグにしまおうとしたが、全然はかどらない。だるいということはないけれど気力も集中力も続かない。

何かがおかしかった。

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IーⅡ
より続く


IーⅢ

 情景の断片に、奥行きの断片を得ることで、遠近法的視座が構成される。そこに時間感覚の断片が参入することで、その場所はリアリティをもったみずからの身体が位置する空間として展開する……。これらバートランド・ラッセルが《センス・データ》と呼んだ断片的な知覚情報とも言いうるものらを集積し、思考のうちでも記憶における想起(anamnèses)を経て再現前するさいには、《イマージュ》と《思考》のあいだに横たわる狭間ほどの非言語的ためらい、空隙を関知するだけの寸断を与えられることはない。このように、瞬時に単なる環境情報としてのセンス・データ集積を日々、とりわけて意識せずにも人間の知覚にもって行われる理由とは、断片的な情報――角度、色、明暗、長短を時間という連続性の導入によって――《空間》として僕らのまえに現前させるための、視覚野にかかわる事象であるからなのだろうか。また、《リズム》と《音楽》に関してならば――鑑賞者と演奏者(成作者)との相対性をすえおいて考えると――メロディとは、客観的な世界を流れる時間によって、聴き手に対し能動的に与えられるものである。ある人間の意識をつなげる主観的な時間でさえも……試しに心内で何かのメロディを思い浮かべるだけでもいい。みずからの内奥でくちずさまれるリトルネロとしての、そのはざまから音楽はいつかの聴覚を経て、植えこまれた楽曲の…精度の程度はあれど、内面化された時間感覚のなかを進んでゆく。音と音、リズムと拍が、時間に繋がれたものとしてメロディになる。

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