(2018年7月20日、代官山・蔦屋書店にて行われた第4回代官山人文カフェ:「人生を左右しない偶然について考えよう」冒頭)

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Simone_Weil_1921
ヴェイユ肖像(出典:Wikipedia

ぼくの哲学との出会いは、2010年の夏頃にハイデガー『存在と時間』(細谷貞雄訳・ちくま学芸文庫)を読み直そうと試みたところから始まる。

『存在と時間』は1927年にドイツで刊行され、第二次大戦後フランスで起こった実存主義の運動に大きな影響を与えた書物だが、ふしぎなことにその実存主義を批判した構造主義の哲学にさえ影響を与えた。そのようなことは読書を続けていくうちに、とくに木田元先生の諸著作に触れることを通じて知ってゆくのだが、『存在と時間』をなんとか理解しようと努めていると(ハイデガーが研究した)ニーチェ、(ハイデガーの)ナチス加担問題、(ハイデガーが言及している)ヘーゲル、(ハイデガーの言う)"現象学"についての解説本を多数記している竹田青嗣、(レヴィナスの)ハイデガー批判などが気になり、『存在と時間』にむかう読書という幹が枝葉をどんどん増やしてしまった。

ぼくは2016年になってようやく『フランス現代思想史』(中公新書)を読む。「ドイツ哲学にばかりかまけていないで、たまにはフランス哲学にも目を配ろう」という気持ちに(ようやく)なるのに、6年かかったのだった。

さてその頃、Twitterでもいくつかフランス語を用いる哲学者のbotをフォローした。しばらく眺めているとそのなかに、妙に気になる、つまりツイート内容がちょっと不可解な=部分的に文意が不明なbotがあった。それが、Simone Weilのbotだったのだ。(レヴィナスbotも同時にフォローしたが、ほぼ何を言っているのか分からないbotだったので、取り付く島が無かった)

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きょうのてらださん(甘くとろける夏の日々)より続く。

魂と姪とピピック

お盆休みには、暇すぎて魂が出た。

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闘争から逃走へ?「勝利-敗北」という構造へのオルタナティブ

今年4月にアート系タブロイド誌の『Va+』が刊行された。特集のテーマは「勝利と芸術生産」。勝利というある種の絶対性を帯びた価値概念と、価値観の多様性を謳うことの多い芸術のめずらしい取り合わせがまず興味を引く。特集の狙いに迫るため、少し長くなるが巻頭言を引用しよう。


「芸術生産を通して、私たちは「勝利」と、逆説としての「敗北」、そして「勝利-敗北」という構造そのものに対して、どのように向き合うことができるだろうか? 当然そこには、勝つか負けるかという二択ではなく、旧来の闘争や衝突から「逃げる」という選択肢もある。あるいは社会の中で身を翻し、現実に起こる日々の苦難に奔走されることなく、自分たちの生活における「よりよく生きる」ことを、「勝利-敗北」の構造そのものから遊離した姿として定義付けることができるかもしれない。では、その遊離した姿とは、一体何であろうか? ライフハック的な営為を経ることで、果たして「勝利-敗北」の構造から逃れることができるのだろうか? 既存の価値基準に自らを委ねることなく、オルタナティヴを探すことで、勝利の意味を実践として書き換えていく可能性はあるのだろうか?」

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きょうのてらださん(癌かも?の巻)より続く。

重大疑惑

相変わらず危険な腕前で外出。

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Food


---『回花歌』梗概---
舞台は2000年代、とある大陸の西方にある街。"私"と家族は牛肉麺屋を営んでいる。街は、かつて核実験が行なわれていた土地のすぐ近くにあり、その影響を暗に示すような出来事が、家族の周囲ではいろいろと起きている。しかし、"私"と家族を含め、街の人々は核や原子力に対する正しい知識や情報を持たず、故に恐れを抱くこともない。彼らは宗教と自身の信仰心を大事にし、家族や親族、友達を大事にして生きている。「何かがおかしい」と感じられるような状況下でも、人々の生活は変わらずに続いてゆく。『回花歌』は、そんな物語である。
 

12---"開けゴマ!"より続く)


13--- "食事会前夜"


閉店後の後片づけも終わり、夜七時半を過ぎた。けれど、いつもの食器洗浄店の店員はやって来なかった。私はそれを気にかけながら、なんとなくうわの空で、ほとんど具の入っていない素麺片を盛りつけた皿を叔母と一緒に行ったり来たりしながらテーブルに運んだ。そのうち父や叔父、兄、ライヒがモスクから戻ってきて、一緒に食事の用意を手伝ってくれた。

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